樺細工 かばざいく

樺細工は山桜の樹皮を用いた世界で唯一無二の工芸です。山桜の樹皮は、代々受け継がれてきた技術で剥がすと、数年で再生し、樹木を枯らすことはありません。その語源は万葉集の長歌の中で、山桜を「かには」と表現したものが後に「かば」に転化したと言われています。樺細工は素材の美しさが魅力の工芸品ですが、同時に優れた素材の性質の上に成り立っています。その特徴のひとつが、湿気を抑えてくれる性質です。印籠、薬篭、胴乱、茶筒と時代と共に特徴を活かした製品が生み出され、伝統の技術が受け継がれてきました。茶筒のように日々手に触れるものは光沢を増し、山桜独特のつやを保ちます。

発祥は旧合川町(現北秋田市)、鎌沢神社の「御所野家」一族にて代々受け継がれてきた一子相伝の手仕事と言われています。その技術が武士の藤村彦六によって角館町に伝えられ、その後、ここ角館で武士の手内職として広まっていきました。当時は武士の間でのみ伝わっていった技術でしたが、次第に市井の人々にも伝わり、明治初期には角館樺細工の問屋「長松谷商店」が誕生しました。(長松谷商店が閉店した後、その流れを継いだのが私たち八柳です。)

技術は武士から市民へと引き継がれ、町の発展にも大きく貢献し、現在に至ります。昭和前半には「どらんこ(胴乱)」職人が町中にいて、外を歩けばトントンと、金槌を叩く音が聞こえていたそうです。この樺細工の胴乱は全国各地に出荷され、樺細工で生計を立てる職人も増え、地場産業として発展していきました。昭和51年には国の伝統的工芸品に指定されます。現在でも、内職含め約150名の職人が角館の町を中心に樺細工づくりに携わっています。

柳 宗悦「樺細工の道」より

“樺細工こそは、角館が誇っていい、日本固有の産物である。
世界のどこへ出しても差支えはない。
町の内外に住む工人の数は現在四百五十人にも及ぶという。”

 幸いにも日本の各地には、日本固有の藝能が幾多残る。だがこの名誉を負うのは、もはや中央の都会ではない。日本の固有性はいつにかかって地方にある。そのためそれらのものをある人は、取り残されたものとして、古い形式の中に入れてしまう。だが今日のように国民の意識が擡頭たいとうして来ると、固有性の弱い都市文化では、力がないことが分る。振り返るとそこには日本性の退歩が著しいのを感じる。だから色々の点で、地方の文化が重い意味を示してくる。
 だがその地方性も、ただ観念的なものに終っては力がない。どこまでも具体的な姿であることが望ましい。ここで造形の分野がどんなに頼りになるか知れない。ここでは物に即して日本を語れるのである。
 日本にはかかる固有なものが色々ある。だがその中で性質が一番はっきりしている一つは角館の樺細工である。樺細工は何も角館と限ったことはない。だがここほどその仕事が見事な発達を示している所はない。
 樺細工というのは損な名である。すぐ白樺を聯想するからである。桜皮細工といってしまえば通りがいいが、しかしそれは都会人にそう思えるというに過ぎない。土地では樺細工で久しい間通っている。誰も想い惑う者はない。樺は古語では「かには」といい、これが後に「かば」となったものだと思える。そうしてこれは桜を意味していたから、「かば」の言葉は既に古い使用である。樺即ち樺桜は、広い意味での山桜である。それも山桜の皮を用いる細工である。これがさきにも述べた通り、秋田県羽後国仙北郡角館で珍らしい発達を遂げた。何もこれだけが羽後の固有な工藝だとはいえない。だがこの国の特産を何で一番代表させるかというと、誰でも樺細工を挙げるであろう。それほど仕事が盛であり、技においても他国の追従を許さない。樺細工こそは、角館が誇っていい、日本固有の産物である。世界のどこへ出しても差支えはない。町の内外に住む工人の数は現在四百五十人にも及ぶという。  (昭和17年12月15日発行)

天然の桜皮、それぞれの個性をお楽しみ下さい。
形は同じでも、一つとして同じものはありません。
ひっそりと山で咲いていた桜、その年月に思いを馳せる時間。